悶えてなりと加勢せねば

 

熱さまシートがいつも助けてくれる。

お徳用の箱が何時だって冷蔵庫でスタンバイしてる、ああ、熱さまシート様。

 

昨日、熱出して夜まで寝込んでたら眠れなくなって、べてるの家の関連書籍を読んでた。

http://bethel-net.jp/?page_id=9

 

いつかべてるの家を訪ねてみたいな。

 

精神障害の当事者ってどんな?と言えば、(リアリティの程はどうなのかとは思うけど)映画「クワイエットルームにようこそ」が思い出される。

 

摂食障害の少女に扮した若かりし蒼井優の痩せ細った身体や、大竹しのぶ演じるシャブ歴アリの新入り患者イジメの常習犯、などなど、出てくる配役の誰もが強烈。

 

主人公の、内田有紀演じる明日香は、家族や元夫に先立たれ、風俗を経験した後にライターとして活躍するんだけど、仕事のスランプも相まって不眠症の治療薬でオーバードースして倒れ、緊急搬送。

自殺したかった訳ではなかったのに自殺志願者とみなされて、閉鎖病棟=クワイエットルームに放り込まれてしまう。

 

これは作り話だしコメディなんだ、と割り切れるんだけど、つい、精神病患者像を思い浮かべようとするとこの映画が浮かんできてしまうけん、いかんね。

 

通院で済んでるものの親子で仲良く心の病気を罹患してる訳なんで全くの他人事ではないんだけども。

つらいことを環境や社会のせいにしてルサンチマンに溺れがちな似た者親子です。

 

wiki先輩曰く、

ルサンチマン(仏: ressentiment)とは、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことを言う。

(中略)

ルサンチマンの表れの例として、敵を想定し、その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーにある。こういったイデオロギーは、敵が悪の元凶とし、だから反対に自分は道徳的に優れていると主張する。「彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ」ということになる。

敵として想定される存在は、自分が無力だと感じさせる対象が選ばれる。例えば、貧しさに無力を感じるルサンチマンの敵は資本家や大企業となる。

 

・・・うむ。気を付けたい。

 

とはいえ、自分と社会の間に何かしらの摩擦はどうしようもなく起こるしいろんな障壁があるのだ。

 

陸上競技でハードル走のことを「障害」と呼ぶみたいに、障害それ自体は障碍者のスペックのことではないんだなぁと最近じわじわ感じる。

 

ところで、大学時代にゼミで水俣病について触れて、親から聞くところによるとどうやら私の曽祖父が加害企業のチッソで研究員をしていたらしく、やっぱり思うところがあるので、卒業したあとも水俣市に足を運んでみたりする。

 

高度経済成長期に国がどんどこどんどこチッソに化学製品を作らせて、垂れ流した廃液で多くの人をメチル水銀中毒に陥れて、未来永劫社会に遺恨を残す事件になったわけだけど。

 

水俣病認定の問題の度に、患者たちに向かって「そんなに金が欲しいか」と酷い言葉を浴びせる人たちがいると聞く。

 

んなわけなかろうが、って言いたくなる。

謝罪の言葉も、補償も、彼らを救えるわけないのだから。

 

「悶えてなりと加勢せねば」。

 

『苦海浄土』の著者石牟礼道子の言う「悶え神」になれ、と命令口調では言わないまでも、公害によって生涯に渡って、社会が生み出した苦しみを代わりに背負う彼らに、少しでも寛大になれんとかいな。

 

不自由が公害によるものであってもなくても、後天性でも先天性でも、障碍者を侮蔑する人たちとはお友達にはなりたくないね。べー。

 

懐かしの母校は、(今はもうなくなっちゃったけど)福祉コースもあって、同学年全体の一割くらい心身に何かしら障壁のある同級生たちがいて多様性に富んだ良い高校だったなって思う。

 

教育の現場って、健常者と障碍者の二分化がされがちだと思うけど、グレーゾーンにいる学生は当然たくさんいるんだから。

 

多様性を認められない、異物を排除したい日本人的な思想は本当に怖いね。

 

なので、津久井やまゆり園の殺傷事件が私にはショック過ぎる。

 

福祉施設の労働環境や賃金のことを思うとそれはそれでしんどいんだろうけど、それにしても、むごすぎやしませんか。

 

これを、「労働市場の問題」とか、「セキュリティの問題」とかで片付けてほしくないな。

「業が深いからこいつァ死刑だ!」みたいな話も御免です。死なれても解決しません。

 

 

「悶えてなりと加勢せねば」。

 

うん。良い言葉だ。

 

一緒に悶えられる人でいよう。

 

そいぎ!