捨てられ船
ポケモン ルビー・サファイアのすてられぶね(のちのポケモンORASのシーキンセツ含めて)ってなんか良いよね。
たくさんのお宝が落ちてるし、意味深なストーリーにくすぐられる。
ところで今回は、小さい頃から私は「私」だったり、「私」じゃなかったりするというお話です。
今日は掛かりつけの心療内科で、POINTS OF YOUやってもらいました。
トランプみたいに伏せたカードからランダムに一枚引く。
引いたカードを伏せたまま先生に返す。
先生が付箋を一枚貼って、表向きにする
表を向けると、風のない海の端で横たわる船、横に座り込んだ男性2人の写真。
どういう状況に見える?
船はなんで横たわってる?
2人はどんな話してる?
そこから何を感じる?
風の無い穏やかな海だと思った。
船は事故で傾いて打ち上げられたと答えた。
管制塔の指示が届かないで操縦を誤ったんだろう、と。
そんな問答の後に先生が付箋を外して、そこに書いてあったのは「BALANCE」の文字だった。
あなたはどこからこの状況を眺めてますか?
その場にいる気がしません。
スマホの画面とか、何か越しに外側から見ているような、そんな感じです。
そんなやりとりだった。
きっと私こそがその船だ、と思ってただろうに。
「私」を主語にして話すとき、なんとなく居心地が悪い。
自分の置かれたシチュエーションも、なんとなくいつも斜め後ろから眺めてる感じがする。
「あたし」「うち」とか、自分の名前以外(高校生のときとか苗字が一人称だったけど)いろいろ試した。
一応無難な「私」に落ち着いて、正確には、「私」と意識して言ってる。
でも、うっかり一人称を「自分」って言いがち。
「私は、こう思います」「私は、」「わたs」って言う度、本当は内心ギクシャクしてる。
目線をどこにやったらいいかいつも戸惑う。
「あれ?もっとウキウキしてもいいはずなのに。」「なんでだろう、何となく楽しみじゃないな。」って感じることがある。
それは好きな映画をこれから観るぞ、久しぶりに彼氏に会うぞ、とかシチュエーションは様々で、その感覚は結果的に悪い予感だったということもあるにはある。
小学生のときから驚かされたりサプライズされたりしても甲斐がないとも言われた。
物陰で待ち伏せて驚かせようとしてきた人たちにはたいへん申し訳ないリアクションの薄さw
「そんなことされたのに、何で怒らないの?」「それ、悲しくないの?」「悔しくないの?」とか言われたことも何度かある。
その時に出なかった涙が、夜ひとりになって溢れてくるときもある。
先生が言うには、そのとき自分の感情が自分のものとして感じられなかったとしても、悲しみや怒りは実は溜まっているらしい。
何かに直面したときアクションするために、その時を知らせるために感情はあるらしい。
割と淡白で、感情がフラットだと自分では思ってたんだけど、どうやら違ったらしい。
な〜んだ、そうかそうか!感情の処理が上手く出来てなかっただけか〜〜!ガッテンガッテン!
なんてトボけているわけにいかない。
たまに無意識に「自分」って一人称でも二人称でも使ってしまうけど(人称っつーか、再帰代名詞じゃんって話なんだけど)、「私」っていうほど主体性が無い現れなのかもしれない。
高校生のとき太宰治の『人間失格』を初めて読んで、父の手帳に「シシマイ」と書いた葉蔵に自分が重なった。
父の顔色を窺った葉蔵が、シシマイが欲しいとこっそり伝えるわけだけど、それは本心ではない。
私はと言うと、家庭の事情で週末にしか会えない父親が、何かを清算するように不器用なりにおもちゃだけは惜しみなく買ってくれていた。
そう欲しくもないのに父親に「最近欲しいものないと?」と尋ねられたときのために「欲しいおもちゃ」をいつも探してた。
父の住んでいたかつての実家に向かう車の中でそんなやりとりをして、そのまま笹丘ダイエーに寄り道して買ってもらうというのが金曜の夜の月例行事。
鍵っ子の一人っ子だったし、大体いつも一人でプレイできるゲームをお願いしてた。(どうぶつの森、ポケモンなどは結果的に大人になっても好きなんだけどw)
だから、『人間失格』を読んだら自分のことが書かれてると思った。
葉蔵と私は、本当はどうしてほしかったんだろう。
私は何を感じて、何をしたいのか、船には優秀な航海士が乗ってなかったのかもしれない。
この横たわった船・・・、これからどうしますか?
新しい船に乗り換えます。
どうか、進水できますように。