ピクサー作品が大人になってからもっと好きになったっていう話。(インサイド・ヘッド篇)
ここ1年くらい、ピクサーの映画で泣くようになりました。ぐすん。
時間を持て余したので、話題のファインディング・ドリーを鑑賞。
去年公開されたインサイド・ヘッドで泣いてなければ、観に来ようとは思ってなかったと思う。
インサイド・ヘッドは、少女ライリーの頭の中にヨロコビ・ムカムカ・ビビリ・イカリ・カナシミの5人の感情たちがいて、ヨロコビが彼らを引っ張ってライリーを幸せに導こうとするんだけど、そこでカナシミが足手まといになって統率が上手くいかなくなってゆく。
最初のうちはカナシミに対してとにかく苛立つ。
なんせ、カナシミはとにかく後ろ向きな思考回路で、さらに他者と協調できない。
ライリーが家庭の事情で引っ越し・転校するさなか、カナシミが起こしたトラブルが引き金になってヨロコビとカナシミが司令塔から離脱する。
記憶や発想のシステマティックで複雑な物流の世界でライリーのアイデンティティを守るためにヨロコビはカナシミと共に司令塔に戻るために奮闘するんだけど、2人を欠いた司令塔で、ムカムカ・ビビリ・イカリの3人ではライリーの情緒を上手くコントロールできない。
2人が不在の司令塔で、次第にライリーは友人とも趣味とも大好きな家族とも向き合えなくなってゆく。
なんだよこのカナシミとかいうクズキャラは〜〜って最初思ってたし、みんなイライラすると思う。
けど、司令塔にカナシミが戻ることでライリーはトラブル以後初めて感情が溢れてきて涙する。
それを見た両親はようやくライリーの日々の悲しみに気付かされる。
カナシミは、他者の悲観的な感情だけは理解して寄り添うことができた。
悲しみを知っているから、他者の悲しみを和らげられる。
喜びと悲しみは、誰かとシェアしないといけないなー、と気付かされる。
もちろん、ヨロコビとカナシミ以外の3人も重要な役割は担ってるんだけど。
ところで、環境の変化に対応できないで情緒不安定になるライリー、思い返せば、既視感あるな・・・?
ライリーにシンパシーを感じるわけです。
私のインサイド・ヘッドも少々トラブルに見舞われたんでしょうな。
そういうことにしておきます。
次はファインディング・ドリーのことについて書きたいけど、疲れたから後ほど!
そして、はみ出す。
「はみ出す」という言葉が最近お気に入りです。ふぁぼふぁぼ。
早速2回目の投稿かよ、そのうちすぐ失速するんじゃねえの、すぐネタ尽きちゃうんじゃねえの、って感じですよね。
前回の投稿で述べたように混沌とした脳内の整理整頓を図りたい、と何故思ったのかのお話です。
転職して3ヶ月目にしてものの見事にポキってなりました。
はみ出しました。残念ながら、適応障害になったそう。私。
割りかし自分でも感情がフラットだと思ってたけどどうしようもなく涙が出る今日この頃。
初めのうちは、「涙なんて流しちゃって喜怒哀楽に起伏が出てきたじゃん!人間臭くて情緒的〜!年のせいかな!ひひひ!」とか思ってた。
適応障害はまだありがたいことに治るんだなー、これが。
とはいえ、闘病中です。
簡単に言えば、ストレスの要因と距離を置くことが適応障害の治療、距離を置いても症状が治まらないのが鬱病。
症状は人それぞれで、私の場合、
めまい・耳鳴り・耳の痛み・頭痛・腹痛・情緒不安定・記憶力の低下・注意力の欠如・手の震えなどなど。
血圧計の中に両ふくらはぎを突っ込んだような感覚で、ぐー・・・っと圧迫された感覚の中でドクドクと脈打つ。
買い物に行ったら「あれ?何買うんだっけ?」。
会社でパソコンで作業してたら、視界が捻れてグニャり。
けど、不思議なことに、親しい人とプライベートで同じ時間を過ごすとなるとたちまちツラさを忘れる鳥頭。
だからこそ適応障害は理解されにくいらしい。
転職して、新しい環境・新しい仕事になじむのは容易いことではないことはわかってた。
何事も自転車のようで、スピードに乗るまでペダルは重い。
その中で、私が数年悶々としてきた「将来のビジョン」を会社で詰められることになる。
いついつまでに具体的なビジョンを話して聞かせて、とお尻を決められても、それまでに納得させられる目標を見つけられなかった。
そして「約束が守れない人」「自分の考えを語れない人」になった。
思い返したら、ただでさえそんな6月は鬱屈としていて、貴重な土日を発熱で棒に振ったり、雨で出掛ける気持ちにもなれなかったり、家と会社の往復で次第に心も閉じた。
どんな言葉をかけられても否定的に聞こえるようになってからが最終段階。
自分は無価値なんだ。
そこからが、下り坂。
ブレーキいっぱい握りしめても、ゆずの名曲みたいに自転車はゆっくりゆっくり下ってはいかない。
つか、この曲聴くと、危ないからブレーキ修理しろよって思うよね。
そんなこんなで、はみ出しました。
退職するなり休職するなり、原因から遠ざからないといけないということで、とりあえず休む方向で、はみ出しましたまま宙ぶらりんです。
毎日苦痛だと話した人たちに適応障害になってましたと報告する中で、ある人に「当事者研究」を薦められた。
これだけがきっかけじゃないけど、
向き合うことで、少しは苦痛も浮かばれるかな?自分/他者に何らかの還元ができるかな?
ってなわけで、とりあえず頭の中身を書き起こそうと思ってはてなブログを始めた訳です。
「熱意が感じられない」「頑張ったのかどうかは他者が評価・判断すること」と言われたことが頭を支配していた。
よく、鬱病患者やツライ境遇の人に「頑張れ」と言ってはいけないと言う。
これはちょっと説明が足りないと思うけど、意味がわかった気がした。
お猪口に一合瓶の清酒が入らないように、それぞれにそれぞれのキャパシティがある。
もちろん、お猪口やけんそげんたくさんは入らんったい!って居直ってもいけない。
私の評価のために、私のビジョンを叶えるために、その為の段取りを組むために、何度もビジョンを詰められたわけだけど、どうしても見つけられなかった。
ビジョンが見つからないもどかしさと、焦りと、失望させたという気持ちを拗らせたら、身体と心は表裏一体だった。
私はまだまだお猪口ですって、ー降参するのではなくてー、ちゃんと理解してもらうためのコミュニケーションが欠けてたのかな。
転職してみると、淡水魚が海に放たれた感もあるにはあった。
そして、もちろん浸透圧。
私がサケじゃなかったなら、イトウ?(そんな大物だとは思えないんだけどw)
海水が合わないんだったら淡水を求めて登るしかないですね
三┗(┓卍^o^)卍
ブログ始めたキッカケをつらつら書いたけど、陰険な闘病記にするつもりないから!
てなわけで、おやすみなさい!
犬猫畜生と分かち合いたいのだ。
もどかしいから何か書いてみるか、と思ってブログ始めてみたよ。
徒然なるままにひぐらしFacebookにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を書きつくっては、いいねやコメントに喜ぶのぼせもんの博多もんの学生だった私が、書くことを随分と長く辞めておったのです。
紙媒体で書く文章なんて主観を切り離したものなので性質はかなり違うし、最後まで上手に書けたでもないけど。
退職前後からSNSの特定/不特定多数の人に対して何か発信することに臆病になってる。
ただここ数日、自分が何を考えてるかを誰かに理解してもらうことの難しさを痛感した。
自分の引っ込み思案を恨んで、散らかり放題の頭の中を、言葉にならない気持ちを、記号に託してみん、とす。
5月に海の中道海浜公園で今年も開催されたcircle2016の2日目、アンコールで向井秀徳が歌ったkimochiの歌詞が思い出される。(一部抜粋)
▼
生まれ育ったその環境、歴史、思想すべて
ブチ込んで表すことができればいい
意味が分からん言葉で意思の疎通を計りたい
犬猫畜生と分かち合いたいのだ
貴様に 伝えたい 俺のこのキモチを
作詞:MUKAI SHUTOKU
誰かと言葉が要らない関係になるのは難しい。言葉が要らない関係になる人と一生涯出会わない人だっていると思う。
それは寂しいけど、火の鳥やサイバーパンクの世界じゃあるまいし、直接脳内に話しかけるコミュニケーションも気色悪いので丁重に断りたい。
目は口ほどにモノを言うとは言っても、そんなの怖すぎ。人の目を見れなくなるよ。
ちなみに寡黙な私の父(私は父を草食系でも肉食系でもなく、観葉植物系と分類してる)は、私や母が音声で問いかけてるのに、眉毛やオナラで返事をしてくることがある。言外のコミュニケーションのカタチで、行き着く先まで行ったんだな、と思う。どうかしてるけど。うん
とはいえ、私は自分の想いを伝える苦手意識があるので、時折、想いを活字にする練習をしてみようか、ってなわけで始めたわけです。
自分を目立ちたがり屋とは思わないけど、人が関心を向けてくれないのはとても寂しいし、呼んだ共感が私を助けてくれることも、あるにはある。